新説・日本書紀② 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)2月3日 土曜日
百余国の王 稲作漁労文明の地 筑豊
神代の神々は「王」だった
書紀の神々の系譜は恐ろしいくらい複雑だ。本文で初代神武天皇につながる神の系譜と同時に、一書群で異なる説話(系譜)を記す。これこそ古事記序文にある「諸家の賷てる帝紀」の反映だろう。本来、神代の神々は「王」で、諸家とあるように「倭人は山島に依りて居を為し、およそ百余国あり、国ごとに皆王と称し」(後漢書)たらしい。日中の史書から推測すると、彼らは「古遠賀湾の島と沿岸の山」に居をなしたようだ。
984年、日本国の僧奝然が宋の太宗に「王年代紀」を献上した。平安時代の東大寺に伝わっていたようだが、現在は失われ、中国の「宋史日本国伝」に残されていた。記紀と異なり「初めの主は天御中主と号す。次は天村雲尊と日う、其の後は皆尊を以て号と為す」として、天八重雲、伊弉諾、素戔烏、天照大神、正哉吾勝速日天押穂耳、天彦、彦瀲など21人の尊を連ね、「凡そ二十三世、並びに筑紫の日向宮に都す。彦瀲の第四子を神武天皇と号す」と記している。大胆に「万世一系」の系譜と、神武に直結する二十三世の王(神)が記されている。
私は、全て筑紫の東すなわち豊国(豊前国)に都を置いたと解いた。例えば、天村雲尊は英彦山神宮の上宮に祭られ、伊弉諾尊は多賀神社や日少宮など筑豊の各神社に祭られている。素戔烏尊も須佐神社や祇園社に、天照大神尊も実は、宮若市磯光の天照宮や飯塚市の天照神社をはじめ、遠賀川水系や彦山川水系の各神社に広く祭られる。正哉吾勝速日天押穂耳尊は田川の神である。天彦尊(=瓊瓊杵尊)は嘉麻市の馬見神社などに祭られ、宮若市の六ケ岳がその陵だとの伝承も残る。この神々(王)の系譜を熟考すると、どうやら戦前の国史に名高い「天孫降臨」の系譜のようだ。
天孫降臨は豊国侵略説話
「天照大神の孫、瓊瓊杵尊が三種の神器を下賜され、豊葦原の水穂国(=豊葦原中国)に天降った」というのが天孫降臨の骨格だ。古事記にはこうある。「天之石位を離れ、天之八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天浮橋に、うきじまり、そりたたして、筑紫日向之高千穂之久士布流多氣に天降り坐しき」。天之石位は沖ノ島(宗像市)と思われる。「ここは韓国に向かい、笠沙の御前に真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」から、宮地嶽神社(福津市)の「光の道」が導き出され、直近の対馬見山が天孫降臨地と比定できる。
天孫降臨は瓊瓊杵尊一代限りの事業ではなく、何代にもわたり繰り返された「豊葦原水穂国への侵略」の歴史だった。古代の筑豊は、遠賀川式土器に代表されるように水穂の国だ。山には木の実が実り、鹿や猪の鳥獣があふれ、北に玄界灘、東に周防灘、内に古遠賀湾と、魚やクジラの豊かな海もあった。筑豊の多数の縄文~弥生の貝塚遺跡が証明する。
近年提唱された「森と水の循環系を守った持続型の稲作漁労文明」が、確かに古代筑豊に栄えていた。そこに何度も王権交代が起きた。それこそが日本書紀の神代の歴史事実だろう。書紀神代の説話は、断じて、ギリシャ神話などのいわゆる「神話」ではない。わが国の「神」は生きている間は「人」だった。日本書紀はもともと「史書」だ。書紀の神々は、結局、稲作の始まった弥生時代の「筑豊百余国の王たち」なのだ。
次回は2月7日に掲載予定です
古遠賀湾などを再現した古代倭国地図(福永氏作成)
王年代記に記された二十三世の王(神)
①天御中主 (あめのみなかぬし)
②天村雲尊 (あめのむらくものみこと)
③天八重雲尊 (あめのやえくものみこと)
④天弥聞博 (あめのににぎのみこと)
⑤天忍勝尊 (あめのおしかつのみこと)
⑥瞻波尊 (みなみのみこと)
⑦萬魂尊 (よろずむすひのみこと)
⑧利利魂尊 (ととむすひのみこと)
⑨國狭槌尊 (くにさづちのみこと)
⑩角襲魂尊 (つのそむすひのみこと)
⑪汲津丹尊 (くみつにのみこと)
⑫面垂見尊 (おもだるみのみこと)
⑬國常立尊 (くにとこたちのみこと)
⑭天鑑尊 (あめのかがみのみこと)
⑮天萬尊 (あめのよろずのみこと)
⑯沫名杵尊 (あわなぎのみこと)
⑰伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
⑱素戔烏尊 (すさのおのみこと)
⑲天照大神尊 (あまてらすおおみかみのみこと)
⑳正哉吾勝速日天押穂耳尊 (まさかあかつはやひあめのおしほみみのみこと)
㉑天彦尊 (あまつひこのみこと)
㉒炎尊 (ほむらのみこと)
㉓彦瀲尊 (ひこなぎさのみこと)
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